東日本大震災から1ヶ月。
多くの人にとってこの1ヵ月はつらく長い1ヶ月であったに違いない。それと同時に3/11にその後の1ヵ月の事など想像することなく命を絶たれた人が数万人いるということを忘れられない。ご冥福を心からお祈りしています。
幸いにしてこの震災に生き残った私達。私はこの1ヶ月自分では何ができるのか?余震や原発で怯える中で考えてきた。
まず、一ヵ月の間で起こったことを私の周りで羅列してみた。私の周りということで個人的な事柄も多くある事をご容赦いただきたい。
3月初頭 弊社の韓国オフィスが臨時にクローズとなる(社内的な問題が発生)
3月 妻が臨月をむかえ出産の準備をすすめる(予定日は24日)
3月11日 東日本大震災発生(赤坂の博報堂さんのビルにいる)。
すぐに家族の無事、会社の無事は確かめられ安心をまずはする。オフィスの復旧はすぐにでも可能かと安堵するも当日の津波のニュースに息をのむ。ラジオで仙台周辺ということに愕然とする(4年ほど仙台には住んでいた)
3月11日 大学の親友が広島から来ていてのむ予定だったが中止。友人は渋谷のカフェに泊まった。
3月13日 北海道の友人とプチ同窓会の予定がやはり延期となった。5月で日程が決まった。
余震と原発に日々ただただ驚き、怯える
東北、仙台の友人とは無事の連絡が取れるも、女川の友人夫婦とは取れない
実家の青森では2日間電力が止まったが復旧する
多くの友人、家族が東京を去る
会社では人事部の判断のもと、東京から一時離れたい人は離れてもいい旨通達
オフィスは一週間閉鎖するも会社へ来る人も居ることに感心する
家族で大阪へ3日間行き、精神的にはすごく楽になった。一方妻は臨月でとても不安だった
早い時期のオフィスのオープンを目指すも原発、余震、電力カットなどでまだこの時期は100%の復旧は無理だった。
3月17日 IT部門の組織変更がアナウンスされ、社内の新しい陣容がすこし見えてくる
3月19日-20日 東京へ帰ってきて、まもなくして陣痛が始まる
3月21日 第三男、帝王切開となるが母子ともに無事、妻は4日間入院。その間病院と家をなんどと往復。
3月22日 子供達の学校はまだ閉鎖中。父母からの不安も高まる
3月31日 韓国オフィスの閉鎖が決定する。
女川の友人ご夫婦は未だに行方不明である。
4月5日 会社日本オフィスが通常業務体制に戻ったことを社内でも通知する
これまでの間、社内の多くの人から日本のオフィスへのがんばれのメッセージを頂く。また社内でも飲み会をして元気を出せた。
4月7日 予定通りイギリスから妻のお母さんが来日。
この時点で、私の周りに限ってはかなり通常の生活レベル、精神レベルまで戻る。(しかしこの日最大の余震が発生、津波はなくひと安心をする)
まだまだ何ができるか?という段階ではないのだが「なにかをしたい」という強い気持ちを持ち毎日の生活をしている。
ただ、2つ考えて実際にしていること。
ひとつは、できる限り通常の生活に戻る努力をすること。私自身はこの大震災で事故などにはあっておらず家族も無事。この大震災をエクスキューズにすることなく粛々と普段の生活を続けることにつとめたいと思う。
節電はするものの、過度の節制はしない。近所の飲食店に出かけていつもどおり酒を飲む!
していなかった運動をもう少し始める。
企業として毎日しっかりと業務に励み、クライアントさんに対してしっかりとサービスを提供。その旨チームをサポートする。
本当、いつもの生活に戻ること、戻る努力をする。
もうひとつは企業として日本での投資を増やす努力をすること。
私達の会社は東北地方ではほぼサービスを展開していないが、日本という単位で見た場合まだまだ魅力的な市場である。
日本オフィスの代表としては、親会社に対して更なる日本市場への投資を促す事を進めたい。
震災により、経済の一時的な下降はやむを得ないがかならず経済の回復は来る。今の時期に弊社としても投資を減らすのではなく、更に投資を多くしていきたい。
このためには上司、そしてロンドンの本社に対してもしっかり営業活動をして勝ち取りたい。
例えば10人でも雇用が増えれば、それは直接の日本への投資となる。がんばりたい。
復興まではまだまだ長い道のりだけれども、まずは通常の生活へ戻ること、そして今後の投資など長期的な投資プランなどをひとつひとつ積み上げていくことで、間接的ですがこれから通常の生活に戻っていきたいとがんばっている人の下支えになれればと思う。
今、私ができることで考えているのはこの二つ。
通常の生活に戻ってきた私は、ボランティア、義援金などさらにできることを具体的に考えていきたい。
最後に震災後に勇気付けられた「雨ニモマケズ」渡辺謙 朗読
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